舞台俳優として人生のすべてを演劇に捧げた男、田口精一さんがこの世を去りました。
10月21日午後9時21分、東京都内の病院で誤嚥性肺炎のため死去。享年95。
劇団民藝の名優として、そして映画界でも重厚な存在感を放った田口さん。
その静かな最期とともに、多くの俳優仲間やファンが深い哀悼の意を捧げています。
葬儀は10月28日、家族葬でしめやかに執り行われ、喪主は長男・田口裕樹さん。
舞台に立つ父を誇りに思っていたという息子の言葉が、人生の幕引きにふさわしい余韻を残しました。
死因 ― 誤嚥性肺炎が奪った静かな眠り
死因は「誤嚥性肺炎」。
高齢者に多く見られる病気で、食べ物や唾液が気管に入り肺に炎症を起こすものです。
田口さんは亡くなる直前まで健康を大きく崩していたわけではなく、体力や嚥下機能の衰えが重なったとみられます。
それでも92歳の時には舞台『レストラン「ドイツ亭」』に出演。
オットー(証人)役として、最後まで立ち姿に凛とした気迫を宿していました。
観客の前で息づいた“俳優魂”は、最期まで決して衰えることがなかったのです。
プロフィール ― 神戸に生まれ、芸術に生きた男
田口精一(たぐち・せいいち)さんは1930年2月4日、兵庫県神戸市生まれ。
戦後の混乱期に青春を過ごしながらも、芸術に対する情熱を持ち続けました。
のちに劇団民藝の看板俳優として舞台を支えることになる彼ですが、
その原点は「表現で人を動かしたい」という静かな願いにありました。
温厚で誠実な人柄。稽古場では厳しくも穏やかに後輩を導き、
“現場の父”と呼ばれるほど慕われていたそうです。
学歴 ― 多摩美術大学で培った「芸術家の目線」
田口さんは多摩美術大学を卒業。
当初は画家や美術の教師を志していた時期もありました。
しかし、やがて“動く絵画”ともいえる演劇の世界に心を奪われます。
美術で培った構図感覚や光の捉え方は、のちに舞台演出にも活かされました。
立ち姿ひとつで観客を惹きつけるその存在感には、「絵画的な美しさ」があったと評されます。
つまり、田口精一という俳優は“芸術家の目”を持った舞台人だったのです。
経歴 ― 劇団民藝の名脇役として生涯を演じ続ける
1950年、東京演技アカデミーで演技を学び始め、翌年には劇団民藝附属演劇研究所に入所。
1952年の『巌頭の女』で初舞台を踏むと、以来70年以上にわたり舞台の第一線を歩み続けました。
1959年には劇団民藝の研究生、1964年に正式劇団員となり、以降、看板俳優として活躍。
舞台『夜明け前』『白バラの祈り』『アンネの日記』など数々の名作に出演し、
温かくも深みのある演技で観客を魅了しました。
映画の世界でも1952年の『原爆の子』を皮切りに、
『第五福竜丸』(1959)、黒澤明監督『天国と地獄』(1963)など、戦後日本映画の礎を支えた存在でもあります。
派手さよりも誠実さ。
田口さんはどんな役でも命を吹き込み、舞台全体を“生きた空間”に変える俳優でした。
結婚相手 ― 公には語られなかった“支えの存在”
田口さんの結婚相手(配偶者)について、公式にはほとんど情報が公表されていません。
長年にわたり劇団活動に打ち込む一方で、家庭のことを公にすることは避けていたようです。
ただ、息子である裕樹さんが喪主を務めたことから、
家族の絆が強く、支え合いながら俳優人生を歩んでいたことは確かでしょう。
長い稽古、全国巡演、夜遅くまで続く舞台――
そんな日々を支えた家族の存在が、田口さんの「生涯現役」を可能にしたのかもしれません。
子供 ― 長男・田口裕樹さんが喪主を務める
報道によると、喪主は長男・田口裕樹さん。
家族葬での見送りは、俳優としての父に対する敬意と感謝に満ちていたそうです。
裕樹さん自身も芸術関係の仕事に携わっているとの噂もありますが、
詳細は明らかにされていません。家族のプライバシーを守りつつ、父の足跡を静かに見守っている様子です。
「父の背中を見て育った」――その言葉だけで、すべてが伝わります。
最後に ― “名脇役”が遺した、誠実な芸の灯
田口精一さんの人生は、決して華やかではありません。
けれども、観客の心に残る“本物の演技”を追い続けた、筋の通った人生でした。
誰よりも真っすぐに芝居を愛し、誰よりも静かに観客の心を動かす。
そんな田口さんの姿勢こそ、今の時代にこそ見習うべき“職人の美学”です。
舞台の灯が消えても、田口精一という俳優が遺した“誠実な芸の光”は、
これからも多くの俳優たちの中で息づき続けるでしょう。
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